山田 宏がこれまでに登場した、さまざまなメディアの取材記事や執筆した記事内容を、厳選してご紹介します。
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■「日本よい国」構想は、国家百年の計 -1-
理念なき国家からの脱却――杉並区長 山田宏 文:高久 多美男
これからの国造りの教書とも言うべき本
砂漠を何日も彷徨い歩き、カラカラに喉が乾ききっている状況の下、オアシスを見つけた時の歓喜にも匹敵すると言えば大げさに聞こえるかもしれない。山田宏著『「日本よい国」構想』を読んだ時の感銘は、それほどに衝撃的だった。まさに私たちはこういうものを待望していたのだ、と合点がいった。これで日本は三流国になるのを阻止できるかもしれない、愛すべき日本人同胞が辛酸を舐めることを余儀なくされる事態にならないですむかもしれない、と一条の光を見る思いがした。 直後、腑の奥底からジワジワとエネルギーがわき起こってくるのを感じることができた。人は希望を見いだした時、力が充填されるようにできているのだ。
そして、これをまとめた山田宏という政治家はいかなる人物だろうと俄然興味がわいてきた。実行力があり、杉並区改革は全国的にも高い評価を受けているということは知っていた。優れた人材が多い松下政経塾門下生の中でもとりわけ人望が厚い…など多くの評判を聞いていた。テレビでも見たことがあるし、著書もいくつか読んだことがある。
しかし、そういった諸々の情報だけで満足できるものではなかった。そのような折、本誌が創刊されることになったのは、まさしく僥倖以外のなにものでもない。このようにして、氏の理念について詳しく聞くことができ、誌面で紹介できるのだから。
艱難に直面する時だけ、理念が作られる
日本の近代史において、国家の理念が明確に掲げられたのは二度だけだと私は思っている。元来、農耕民族であるだけに、危機意識が乏しいのだろう。日本人はよほど切迫した状況にならないと自ら動こうとしない特質があるように思えてならない。二度というのは、明治維新後の富国強兵、そして太平洋戦争後の加工貿易立国である。明治初頭は弱肉強食の時代。国家としてヒナのような存在だった日本が西欧列強に飲み込まれないために、そうする以外になかった。そして、西洋人が驚くほど短期間に日本は世界の列強の仲間入りを果たした。
太平洋戦争直後はもっと凄まじかった。多くの優れた人材を失い、国土は焦土と化し、資源もなく食糧に乏しい日本がもはや再興することなどありえないと断じた西洋の日本専門家はたくさんいたという。
ところが日本はここでも力を発揮する。原料を輸入し、加工して付加価値をつけた後、輸出する。そういうことを国造りの基本にして約八千万人の日本人を食べさせようとしたのである。政治形態はもとより、税制、教育など、あらゆる制度をその基本理念に合わせて再興に一丸となった。その結果、奇跡的な復興がなされたのである。人類史上まれにみる繁栄を数十年間も享受し続けていることによって、この状況が当たり前のように思う人も多いだろうが、今の繁栄はおよそ五十五年前に掲げられた国家理念に負うところが大きいと認識すべきである。
しかしながら、欧米へのキャッチアップという大命題を果たした後、日本人は目標を失い、と同時に次の目標を定めることを怠ってしまった。経済合理性を追求し、国民の富を膨らませる過程で失ったものを回復させるためにどうすればいいか、あるいは今後日本はどのような国を目指すべきなのか、といった重要課題にまったく手をつけずに太平楽を決め込んでしまったのだ。このツケは年を経る毎に膨らんできた。
なぜ、無為無策であったのか。それは、危機感に乏しい、のんきな国民性であることに加え、政権交代がほとんどないという異常な状態によって、政治家たちが国の舵取りに関心を失ってしまったからではないか。目指すべき国家像を国民に示すことなく、政官財がこぞって既得権益を死守することにのみ腐心してきた結果、現在の日本は、日本人はこの体たらくになってしまった。
そのような状況下、山田氏のような救国の志を胸に抱いた人物の登場は誠に時宜を得ている。このような人物を国民は久しく待ち続けていたのである。
世の中を良くする『人物』になる。それが人生のテーマとなりました
山田宏の知を啓いた偉人伝
山田が政治家になるまでの経緯を訊ねた。
「もともと政治家になりたいという思いはまったくありませんでした。ただ、政治家になるための素地がどのようにして養われたのか、と言えば、子どもの頃、夢中になって読んだ伝記に行き着くでしょう。父から買ってもらった織田信長や豊臣秀吉など歴史上の偉人伝をむさぼり読みながら、自分と重ね合わせていました。のめりこみやすいタイプは今も同じです(笑)。おそらく子どもなりの上昇志向だったのでしょう」
家庭や学校など小さな世界に生きている子どもの意識がいきなり射程を伸ばすきっかけは、二つに大別されると思っている。一つは自然に触れること、もう一つは歴史上の偉人たちの業績を知ること。後者の媒介となるのは本か誰かの語り。小学二年生の山田宏は偉人伝を読むことによって、知的好奇心が啓かれていったのだ。
その後、政治の世界に興味を抱くきっかけとなったのは、ロッキード事件だったと言う。
「あの事件に対する世の中の反応は、一様に『けしからん』ということでしたが、私はあの時、責任を妻や秘書になすりつけて逃げまどう政治家の姿にひどく失望しました。結果的に悪いことであったとしても、国のためにやったというのであれば、どうしてそれを国民に説明しないのか、と」
当時、NHKの大河ドラマは『勝海舟』であった。山田はそれを見て、幕末にこんな人物がいたのかと興味を抱き、本屋へ走った。その時買ったのが勝海舟の『氷川清話』。口述筆記で著されたその本には、勝海舟の半生記と人生哲学が記されていた。曰く、人間が事を成すにあたり、最も大切なことは胆識である、と。自分は禅と剣道によって胆力を養い、広く世界を見ることによって識見を養った、だから暗殺を企む輩がいようとも意に介さない、と書かれていた。
「今から思えば、勝海舟特有の自慢話ですよ。しかし、当時の私は、幕末にはすごい人物がいたものだ。それにひきかえ今の政治家の体たらくはなんとしたことか、とひどく落胆しました。その時、私ははっきりと自分の目標を定めたのです。こういう人物になろう。日本には『人物』がいないからこういう状況になってしまったのであって、自分がひとかどの『人物』になることによって社会を変えたい、と」
転勤族だった父から、「サラリーマンにはなるな。弁護士を目指せ」と言われていたが、果たして弁護士となった自分が社会を良くする人物になれるかどうか確信をもてないでいた。次の転換点は、京都大学法学部に入って間もなくやってきた。
「憲法を学んだ時のことでした。この憲法は敗戦という革命によってできたものだとか明治憲法との断絶などと、まるで幻想のような話ばかり聞かされたのです。その時、虚実に基づいているものを学ぶ必要があるのか、と疑問に思い、一気に興味を失いました。入学して三ヶ月後です。そして、私は大学内で政治思想研究会というものを立ち上げました」
大学時代、山田宏の原形質はできあがったと言っていい。社会を変えていける「人物」になるとの理想を秘め、父が強く薦める弁護士の道にあっさりと見切りをつけ、大学が用意してきたカリキュラムも学ぶ意味なしと断定した。世の中の常識に沿って自動的に流されていくことに決然と異を唱えたのだ。
ただし、自分の思いが周囲のそれと同じとは限らない。
「当時はまだ学生運動の残り火がありました。大学をブロックしたり機動隊に石を投げたり、校舎を壊したり落書きしたりビラを散らかしたり。私は学生たちの怒りもわからないではないが、授業を受けたい生徒もいることを無視して無責任に授業を破壊している人たちにものすごい憤りを覚えていたのです。そして、全学集会の時、クラスの代表として学生運動に参加している学生たちに問いました。君たちにこんなことをする権利はあるのか。どうしてもやりたいのなら、やった後は現状復帰させるべきだ、と。
その翌々日、ウルトラライトの山田を糾弾しろ、というビラがあちこちで配られたのです。ある日、警察が下宿まで訪ねてきて、こういうビラがまかれているから気をつけた方がいいと忠告まで受けました。もちろん、それでひるむタイプではありません。叩かれると攻撃的になるのは今も同じです(笑)。それから左翼にも失望しました。もともとあまり期待はしていなかったのですが、もしかしたら正しいことなのかもしれないと思っていました。しかし、完全に幻滅しました。あまりにも自分勝手なまやかしの政治思想だと気づいてしまったのです。結果的に私の直感が正しかったということは後の共産主義の凋落ではっきりわかりました」
その頃を境にして山田の政治思想は保守路線に定まり、大学でも自由主義者の勝田吉太郎氏や国際政治学の高坂正堯氏のゼミをとるようになった。
子どもの頃、歴史上の偉人伝によって外の世界に刮目され、勝海舟の著書によって政治の世界に誘われ、そして大学での学生運動を反面教師として、知らず知らずのうちに山田の政治思想は固まってきたのである。
「君、ここに入れたら政治家になれるで」松下幸之助はそう言った。
山田宏の志を見抜いた松下幸之助
弁護士になることを断念し、政治に興味を持ったとはいえ、そう簡単に自分が政治家になれるとは思わなかった。「政治家になるための、いわゆる”三バン“が当時の僕にはまったくありませんでした。父は転勤族だったので、私たち一家は旅ガラスのように日本のあちこちに移り住んでいましたから”地盤“と呼べるような活動基盤はありません。名声や立派な肩書きなどの”看板“もありません。加えて、父は言ってみれば労働者階級ですから”カバン“つまりお金などあるはずもありません。ずっと都営住宅など賃貸住宅に住んでいましたし、外食と言えば年に一回、クリスマスにカレーを食べた程度の記憶しかないようなつつましやかな家でした。そのような状況でしたから、とても自分が政治家になれるなど思ったこともありませんでした」
当時をそう述懐する山田。それほどにこの国では条件が揃わないと政治家になれない。志と能力があれば誰でも政治家になれるようなシステム作りが急がれる。
「保守系の政治家なら二世か官僚か秘書、革新系なら組合か新聞記者、それがほぼお定まりのルートでしたね」
いずれにもまったく縁のなかった山田だが、しかし、勉強は怠らなかった。十八歳の時、「自分は人物になる!」と決めた目標は、片時も揺るがなかった。
ある日、山田は新聞を見て、衝撃を受ける。大学三年生の時だった。松下政経塾というものが設立されるという趣意書が掲載されていたのだ。じっくり読み進むうち、この松下幸之助という人は自分がやりたかったことをやろうとしているではないか、と気づいた。
「当時の僕は松下幸之助が誰なのか知らなかったのです。それを読んで松下電器の創始者であるということがわかりました。目から鱗とはあの時のようなことを言うのでしょう。なるほど世の中には偉い人がいるものだ、自分はここに入ろう、と心に決めたのです」
親に内緒で願書を出した。一次、二次試験を通り、最終の面接試験を迎える前、塾側から、ゼミの教官の推薦状をもらってくるように、との通達を受けていた。山田は躊躇した。なぜなら、ゼミの教官・高坂正堯は松下政経塾の理事でもあったからだ。理事に便宜を図ってもらって試験に有利にするような真似はしたくなかったのだ。
やむなく高坂に事の成り行きを説明し、推薦状をいただきたいと言った。喜んで書いてくれると思っていたのだが、答えは案に相違して「やめとけ」だった。「五年間そこで学んでも食いはぐれるだけや。京大を出てもムダになるだけ。愛するゼミ生をそんな目に遭わせたくない」。
それでも、山田は食い下がった。自分がやりたい道はこれだ、と確信があったからだ。
結果的に高坂は五年の間に会計士の資格を取るということを条件に推薦状を書いてくれた。設立間もない松下政経塾は、当の理事からさえ「海のものとも山のものともわからない」という程度にしか思われていなかったのだろう。
さて、面接の日を迎えた。相手は松下幸之助を中央に、塾頭の久門泰、役員の江口克彦(現PHP総合研究所社長)など五人が前に並んで座っていた。
さまざまな質問を受けている間、松下幸之助は一言も発せず、表情もまったく変えず、手にした書類に○とか×をつけるだけ。
最後に江口が「塾長、いかがでしょうか」と松下に振った。山田は緊張した面もちで言葉を待っていたが、「君、酒は飲むのか」が最初の質問だった。肩すかしにあったような気分だった。
「飲みます」「どれくらい飲むんや」「けっこう好きですのでたくさん飲みます」「そうか、で、どんな酒なんや」と問答は続く。
「どんな、と申しますと?」山田は真意がわからず、逆質問をした。「楽しい酒かどうかと訊いておるんや。君、歌を歌ったり芸とかするんか」「ええ、ラグビー部ですから(理由になっていない)」「じゃあ、楽しい酒なんやな」「はい」「じゃあ、ええわ」。
次に、「君に彼女はおるんか」と訊かれた時、山田は「酒の次は彼女の話か、もう結果は決まってしまい、これは時間かせぎかもしれない」と頭に不安がよぎった。
「います」と答えると、「寮生活は五年間あるんやけど、君、我慢できるか」と返された。この時も真意がわからなかったが、「はい」と答えた。
最後に、「君は何になりたいんや」と問うてきた。それが核心だったのだろう。
「まだ決めていませんが、政治を変えたいと思います」山田はそう答えた。「どうやって変えるんや」「政治運動をして変えたいと思います」「 政治家にはならんのか」。ここで山田は三バンのいずれもないことを説明した。
「それも道理やが、君、ここに入れたら政治家になれるで」松下幸之助はそう断言した。この時、松下は”人物になりたい、政治に関わり社会を良くしたい“と内に秘めた青年の志をすでに見抜いていたのだろう。その言葉通り、山田は二期生として入塾を果たし、四年後、塾を後にして政治家になる。
ところで、松下に「我慢できるか」と訊かれて「はい」と答えた山田だが、塾生時代に結婚し、長男も生まれた。「君、えらい早いやないかって皮肉を込めて松下塾長に言われましたよ」と言って山田は快活に笑った。
優柔不断を窘めた松下幸之助の言葉
父の猛反対を押し切って意気揚々と松下政経塾に入ったが、講義内容には困惑の色を隠すことができなかった。国家有為の人材を育成するための機関なのだから、かなり厳しい授業になることも覚悟していたが、カリキュラムは無きに等しい。研修方針の通り「自修自得」「現場主義」、つまり自分で学びたいテーマを見つけ、自分で学びなさいということだった。「これには正直参りましたね。それまではある意味で飼い慣らされた豚のようにただ従っていれば餌を与えてもらえたのに、いきなり自分で餌を探してこい、というようなものですから」
官僚を養成するのであれば、どんどん難しいテーマを課して、英才教育を施すのもいい。しかし、国を動かすほどの政治家や経済人を育成するとなると話は違う。松下幸之助は、そのことの真理を透徹していたのだろう。課題山積の世の中をつぶさに見て、どれが世の中を変えるポイントになるかを自分の感性で見極め、その答えを得るために自らの知恵と手足を使いなさい、ということなのだ。今、政経塾の研修方針を知り、あらためて松下幸之助の巨きさを思い知らされるのである。
「月に一度の松下幸之助の講義はとても面白かったのですが、時々学者や役人を招聘して行われる講義は大方は退屈でした」
当時の山田ははやる気持ちもあったのだろう。何度も松下に新党を作るよう直訴している。政経塾の理念には賛同するも、あまりに巧遅に過ぎると思ったのだった。
しかし、松下の答えはいつも同じだった。「まずは人間を学ぶことが先や。人間の本質をつかむことが先や」
こらえきれず、山田は同僚の仲間たちと給料の三分の一くらいのお金を出し合い、赤坂のある会議室に事務所を構えて政策の勉強会を立ち上げた。政治を学ぶには地の利がある赤坂で政治を学び、同志を糾合しようと思ったのだ。
ところが、このことが塾頭に知れ、怒りをかった。「どうしても続けたいのなら退塾してからやってくれ」。山田たちは時期尚早と判断し、事務所をたたんだ。
このエピソードには後日談がある。
後年、PHP研究所の江口克彦から、松下も最後の頃は本気で新党構想を描いていたということを聞いた。その時、松下は以前、塾生から新党を作っていただきたいと何度も決起を促されたが、あの若者(山田のこと)は今、何をしとるんやろ、と訊かれたので、赤坂の事務所の顛末を話したと江口は言った。すると松下はこう言ったという。
「そのような程度の志ではあかんな。考えてみ、噺家になるにしても一度師匠と決めたら何をされても這いつくばってでもやり通すやろ。しかし、一度自分でやると決めたことを二度や三度文句を言われたからといってすごすごと退散するようでは立派なことはできんわ。まして新党やろ。彼もそこまでで終わりやな」
それを聞いた時、山田は血の引くような思いをした。なんと自分の志は脆弱だったのだろう。たしかに松下幸之助が言った通りだと思った。
「それ以来、その言葉はずっと私のトラウマになっています」
松下幸之助は、その言葉が山田本人に伝わることを意図していたのだろうか。事実はわからないが、山田の信念をより強固なものにする役割を果たしたことだけはまちがいない。
一所懸命にやる姿を必ず誰かが見ている
入塾して四年目のことだった。ある朝、全塾生を集めて塾頭が言った。次の都議選に河野洋平率いる新自由クラブから立候補したい人はいるか、と。何人か挙手したが、山田はそうしなかった。結婚して間もなく、子どもはまだ〇歳。妻の同意が得られるとは思わなかったからだ。
ある日、河野洋平から直接自宅に電話があった。一度、会いたい、と。そして、河野から直に次の都議選に立候補してほしいと伝えられた。それでも山田は断った。
その一ヶ月後、再び河野から電話があり、また会うことになった。再び立候補を促されたが、今度も山田は断った。
しかし、政党のリーダーが自ら二度も会いに来てくれたことに心が揺るがないわけにはいかなかった。山田は同期の塾生に相談した。友人の答えは、明瞭だった。「おまえには勢いがある、いいじゃないか、せっかくのチャンスなんだから、それをつかめ」。
それで心は決まった。都議選に立候補し、見事当選するのである。
「あの時、ふと河野さんはどうして僕のことを知ったのだろうかと思いました。結局、人は一所懸命に何かをやり続けていれば、目先の目標は達成されなくても、その姿を誰かが見ていて、道をつけてくれるということを身をもって知りました」
一心不乱に何かをやり続けている人を見て、人は放っておけない。山田は人間の真理をまたひとつ学んだ。あらゆる体験を自分の血肉にする智勇と謙虚さをもっているのである。






